一人五両。年間およそ二百五十人の僧が、全国から能登の總持寺へやって来る。目当ては「總持寺の住職を務めた」という経歴です。いまの言葉で大胆にいえば、總持寺は、住職の地位を売り物にしたのです。圭室文雄「幕末の大本山總持寺」/大本山總持寺「總持寺住山記」
これは幕末の話です。各地で修行を積んだ僧が本山に上り、「瑞世(ずいせ)」と呼ばれる儀式を経て、歴代住職の一人に名を連ねる。いわゆる「一夜住職」です。僧は和尚としての資格を得て地元へ帰り、總持寺には年間およそ千二百五十両が入る。そして僧が帰った先には、「うちの和尚が能登の總持寺で住職を務めた」と語れる寺が一つ増えました。尾崎正善・永見達也「総持寺祖院蔵『永平寺瑞世者名簿』」/圭室文雄「幕末の大本山總持寺」
そもそも、一つの寺が、なぜ年に二百五十人もの住職を迎えられたのでしょう。話の始まりは、幕末からおよそ五百年前にさかのぼります。
四十二年務めた住職が、後を交代制にした
前回紹介した峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師は、總持寺の二代目をおよそ四十二年にわたって務めました。その間に、多くの弟子が育ちます。貞治三年(一三六四)、峨山禅師が定めたのは、弟子たちが教えを継いだ順をもとに、交代で總持寺の住職を務めることでした。これを「輪住制(りんじゅうせい)」といいます。前回「永光寺と總持寺、能登で教えをつないだ二つの寺」/大本山總持寺「總持寺の歴史」
地方で自分の寺を預かる弟子にも、いずれ能登に戻り、本山を預かる番が来る。住職を送り出す側の寺も、その名誉と負担を引き受ける。峨山禅師は後継ぎの決め方を通じて、弟子たちが各地に広がったあとも、ともに總持寺を支える仕組みを残しました。大本山總持寺「總持寺の歴史」
この交代制は、時代を下るうちに形を変えます。幕末には、全国の有力な末寺から毎年五人が選ばれ、總持寺の境内にある五つの寺院、「五院」を一つずつ預かりました。本山の日々の運営は、この五人が順に担います。一方、和尚の資格を得るために訪れた僧も、瑞世を経れば、總持寺の歴代住職として帳面に名が載りました。圭室文雄「幕末の大本山總持寺」/大本山總持寺「總持寺住山記」
寺を運営する責任は五人で分かち合い、その寺の住職を務めたという名誉は、年に何百人もの僧に開く。こうして名を書き継いだ帳面は、明治三年(一八七〇)に輪住制を終えたとき、第四万九千七百六十六世に達していました。大本山總持寺「總持寺住山記」
時代の最先端を行きすぎた、能登のプラットフォーム
五両を納めた僧は、一夜を終えると能登を去ります。けれど、その人の経歴には、生涯にわたって總持寺の名が残る。僧が各地の寺で和尚を務めれば、その弟子たちにとって、能登は自分の師が本山の住職になった土地です。「總持寺の歴代に加わる」という名誉がどんなものか、身近にそれを示す人がいるのです。
いまの言葉で捉えるなら、總持寺は、僧と全国の寺を結ぶプラットフォームでした。各地から僧が集まるほど、總持寺はより多くの寺にとって、自分たちと縁のある本山になる。そのつながりが広がるほど、そこで認められることの価値も高まり、次の僧がまた能登をめざす。人が本山の価値を高め、高まった価値が次の人を能登に呼ぶ。この循環を生み出したところに、輪住制の制度イノベーションがあります。
一夜の住職を迎える、門前町の一年
このプラットフォームには、能登という住所がありました。全国どこに寺が増えても、總持寺で瑞世に臨む僧がめざすのは、能登の山門です。しかも、能登へ向かったのは僧だけではありません。地方の住職が檀家を伴って本山に上ったことも伝わっています。伝燈院「副住職のご挨拶」
迎える側の暮らしは、門前に残る記録から見えてきます。宝永二年(一七〇五)の「門前家数の覚」によると、門前の四十六戸のうち、二十八戸が職人、十二戸が商人、六戸が労役を担う家でした。半分以上は職人の家です。大工に瓦職人、左官に畳職。各地から人を迎える堂には、屋根を葺く人がいて、畳を替える人がいました。總持寺通り商店街「商店街の歴史」
一人五両は、本山に一度入るお金です。その一人が地元に持ち帰った總持寺との縁は、次の世代にも残ります。峨山禅師が弟子たちのために定めた住職の順番は、五百年をかけて、遠い土地の僧が生涯の節目に能登を訪れる理由になりました。そして山門の前には、その一夜を一年じゅう支える人たちの町が育っていたのです。