前回は、總持寺が能登に生まれたときの物語を紹介しました。今回は、もう一つの大切な寺とのつながりをたどります。

その寺の名は、永光寺。「ようこうじ」と読みます。

永光寺があるのは、私たちテクノウインと同じ石川県羽咋市です。總持寺を開いた瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師は、この地にも寺を開き、教えを受け継ぐ人々を育てました。能登の禅の歴史は、門前の總持寺と羽咋の永光寺、その両方から見えてきます。

羽咋の永光寺と、門前の總持寺

永光寺は、瑩山禅師にとって活動の中心となる寺でした。總持寺の住職を弟子に譲った後も、禅師は永光寺に戻り、ここで生涯を閉じています。

そして、後の教団を託されたのが、永光寺二代目の明峰素哲(めいほうそてつ)禅師でした。明峰禅師は、師の身近で長く修行を重ね、教団の僧侶を統括する「僧禄」にも任じられました。永光寺には、一つの寺の運営にとどまらず、瑩山禅師の門下をまとめていく役割が期待されていたのです。總持寺の公式解説でも、永光寺は瑩山禅師の没後、十五世紀半ば頃まで曹洞宗の中心寺院として機能したとされています。大本山總持寺「瑩山禅師行状図」

一方、總持寺の二代目を継いだのは、峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師です。

峨山禅師は多くの弟子を育て、その弟子たちが各地で教えを伝えることで、曹洞禅の広がりを支えました。なかでも優れた五人は「五哲」と呼ばれ、總持寺の発展を担う存在となります。津幡町「峨山禅師」

永光寺を、教えの継承と教団運営の中心。

總持寺を、人を育て、教えを各地へ広げていく拠点。

二つの寺の歩みは、このように捉えることができます。ただし、それぞれの役割が完全に分かれていたわけではありません。両寺で修行や教化が行われ、そのつながりの中で教団が育っていきました。

二つの寺を結ぶ、峨山道

その関係を象徴するのが、二つの寺を結ぶ「峨山道」です。

總持寺二代目の峨山禅師は、永光寺では四代目の住職も務めました。永光寺で朝のお勤めを終えた後、總持寺の朝のお勤めに間に合うよう山道を往来したという言い伝えが残っています。約五十二キロにも及ぶ道の伝承からは、両寺を大切に守ろうとする姿が伝わってきます。全国曹洞宗青年会「峨山道」

二代目から三代目へ、教えをつなぐ

二代目から、その先へ。教えの継承はさらに続きます。

永光寺では、明峰禅師に続いて三代目の無涯智洪(むがいちこう)禅師が名を連ねます。一方、總持寺では、峨山禅師の弟子である大源宗真(だいげんそうしん)禅師が三代目となりました。同じ「三代目」でも、二つの寺にはそれぞれの歩みがあります。永光寺の歴代に関する研究(駒澤大学学術機関リポジトリ)/常圓寺「法系」

やがて總持寺では、住職を交代で務める「輪住制」が発展しました。教えを受け継ぐ複数の系統が寺を支える仕組みです。開祖が開いた場所を、後継者たちが力を合わせて守り、次の世代へ渡していきました。總持寺デジタルアーカイブ「總持寺住山記」

足元にある、能登の禅の歴史

私たちがものづくりを続ける羽咋にも、その歴史の中心を担った永光寺があります。

門前と羽咋。二つの寺のつながりを知ると、能登に根づく禅の文化が、より身近に感じられます。この土地で何が大切にされ、どのように受け継がれてきたのか。私たちも、その足元の歴史を一つずつ学び、伝えていきたいと思います。